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私の鉄道趣味偏歴

 ここでは高急グループを形成するに至った鉄道模型を中心に、年表形式で記載しています。年月の記録が残っているものは調べて書いていますが、子供の頃の部分は曖昧な記憶によりますので、事実と異なる場合もあるかもしれません。

1952 − 2008      リンクは別窓で開きます。

昭和27年(1952)  母の里である滋賀県高島郡安曇川町にて誕生。母とともに江若鉄道と京阪京津線を
乗り継いで、居住地の京都市下京区へ戻ったものと思われ、これが私の鉄道乗車初体
験となっている。以後、盆・正月等の里帰り時には、京津線+江若が定番となる。
昭和30年(1955)  夏の夕涼みに鴨川へよく連れられた。京阪電鉄の松原踏切の警手さんにいろいろ教
えてもらい、京阪ファンの素地ができる。父は給料日に京都駅前にあった「丸物百貨
店」(今の近鉄百貨店)で、電車のおもちゃを購入してくれた。まだプラレールはな
かったようで、ブリキのおもちゃだが、すでにかなりの車両数を保有していた。
昭和34年(1959)  京都市立豊園小学校入学 現在は統合により、洛央小学校になっている。この頃の
京津線には急行用260形・各停用50形・70形が走っていたが、ときどき急行に
60形「びわこ」号が使われていた。260形に比べ車内が暗くてあまりいい印象で
はなかった。リベットごつごつの200形の急行にも乗った。しかし三条から浜大津
まで直行するため、各停用車両にはほとんど乗ったことがない。80形も登場してい
るが、ポール時代にはほとんど乗らなかった。
昭和35年(1960)  画用紙に定規を使って京津線や江若の車輛を書き、セロハンテープで箱形に組み、
線路を広告や包装紙の裏に書いたものの上で、車輛を手で押して遊んだ。ペーパー車
輛に組立式レイアウトの原形といったところか。百貨店で鉄道模型が扱われているの
は見かけたが、まだ自分の手に入るものという感覚はなかった。
昭和36年(1961)  京阪の萱島に住んでいた祖母の親戚へ行ったとき、商店街の玩具屋で三共のプラ製
トラ45000?キットを買ってもらう。この家は京阪の線路際にあり、裏庭で延々
と京阪ウォッチングをした。また祖母の里が三重県関町にあり、草津線・関西線の蒸
機牽引列車に初めて乗車したのもこの頃である。
 祖父の親戚は国鉄城東線寺田町近くにあり、京阪特急もよく利用した。祖父は国鉄
のことを「省線」と呼んでいた。この家の窓からもオレンジ色の101系を見ること
ができた。
昭和37年(1962)  小学校の友人に、カワイの153系電車を見せてもらい、初めての本格的鉄道模型
に感銘を受ける。大丸百貨店にて、鉄道模型社モハ152・24インチ木製道床付線
路・パワーパックを買ってもらい、1/80・16.5mm模型鉄道を正式に開業する。鉄道会
社名はまだつけていなかった。
昭和38年(1963)  大丸百貨店にて、カツミEB58を買ってもらう。機関車に牽かせるためペーパー
製貨車の工作をはじめる。「模型と工作」に掲載されていた記事により、ワム23000
を作る。木製床板に金属製軸受けを接着するが、セメダインCではすぐにはずれてし
まった。この頃は京阪電鉄松原踏切近くの「ガリバー模型」へ行っていた。同じ小学
校に鉄道模型をやっている友人が数人いたので、お座敷運転会をやるようになった。
昭和39年(1964)  阪急京都線河原町地下延長線開業。沿線の小学校が社会見学で招待され、この年デ
ビューした2800系で河原町〜新千里山間を、淡路駅折り返しで往復した。
 小学校の修学旅行は定番の伊勢であるが、列車は姫路〜鳥羽のいわゆる参宮快速で
あった。
 友人と京都模型へ行ったときTMS特集シリーズ「ホームレイアウト」を購入、冒
頭の写真ページにあった解説文「ガーダーブリッジ上をオープンエンドの客車をひく
コロンビアが走る時、・・・」
という文章が理解困難だった。友人はTMS197号
を購入。「模工ハンドブック」に掲載されていたモハ32の記事を参考に、ペーパー
製電車の自作を始める。
昭和40年(1965)  京都市立成徳中学校入学 登校時、烏丸高辻の交差点で、連結急行運転の市電2000
形・2600形を見かける。大丸百貨店で「鉄道模型趣味」203号(1965年5月号)を購
入、以後TMSを定期購入している。
 TMS特集シリーズ「たのしい鉄道模型」に掲載された組立式レイアウトに興味を
持ち、友人の線路と合わせて6畳の部屋に展開できるものを作り始めた。しかし、ポ
イントマシンなどが資金面で調達できず、コントロールボードなどもできないまま中
断してしまった。
 TMS等に掲載されるレイアウト紹介で各自鉄道名を付けているので自分も鉄道名
を付けることにし、当時居住地付近の「高辻通り」から「高辻急行電気鉄道」と命名
する。
昭和41年(1966)  父の持っていた「コニカオートS」という距離計連動式EEカメラで、京都駅・京
津線などの撮影を始める。
昭和42年(1967)  中学校文化祭に、有志で展示と模型運転を行う。前記の組立式レイアウトを再利用
し、それに持ち寄り線路を適当に配置しただけだが、それなりに楽しく運転すること
ができた。中学校の修学旅行は155系「きぼう」号であった。
 「模工ハンドブック」裏に載っていた鉄道友の会案内により入会、東山会館で行わ
れた京都支部例会に参加、今井健夫氏から声をかけられる。
昭和43年(1968)  京都市立塔南高等学校入学。 今井健夫氏より勧誘をうけ「鉄道研究会」に入る。
機関誌の製作や撮影会・見学会などに参加する。京津線300形のペーパー模型を作
るため、屋根上の写真にチャレンジした。しかし、模型の方は車体を箱にしたところ
でアクシデントが発生し完成しなかった。
昭和44年(1969)  江若鉄道廃止。最後の夏に撮影会を行ったが、水泳をしながらというレジャー半分
だったので、カラーフィルムを入れていたのにまともな写真が撮れていない。模型の
方ではトランジスタコントローラーを製作した。
 高校の修学旅行は往路が関西汽船別府航路、帰路は急行「しろやま」に乗車した。
旅行の記念に、阿蘇駅と西鹿児島駅で入場券を購入した。
昭和45年(1970)  京津線パンタ化。ポール時代の姿を残すべくトライXを詰めて撮影に行ったが、結
果は粒子の荒い写真になってしまった。肝心のポールがアングルから出てしまったり、
距離計連動カメラの限界を感じはじめていた。友人と万国博に行った時、「万国博西
口」の阪急の乗車券
を手元に残すことができた。
昭和46年(1971)  大阪電気通信大学通信工学科入学。 念願の京阪電車による通学が実現、四条〜寝
屋川市間を1700系や600系の急行、2000系の各停を乗り継ぐ。幸いにも「鉄道研究会」
が存在したので入部。
 友人からニコマートを借りて撮影会に参加していたが、ようやく一眼レフカメラを
購入することができた。それまでコニカだったのが影響してか、当時一眼レフで自動
露光システムを備えていた「コニカFTA」
というマイナーな機種を選んでしまった。
当時は気にならなかったが、ネガを見返してみるとレンズの描写力にシャープさが欠
けるのは否めない。
昭和47年(1972)  根矢川地方鉄道開業。TMSの記事で作った木造軽便風客車のため、新たに鉄道会
社を設立。1/80・16.5mmの軽便風鉄道である。機関車は、つぼみ製Bテンダー。
 中古のペンタックスSVを手に入れるが、露出計内蔵でないため目分量露光による
ネガの出来は酷い。
昭和48年(1973)  初めてリバーサルフィルムで撮影をしてみた。「さくらカラーR100」である。
カメラメーカー純正品に合わせたというところ。35年以上経過しているが、今のとこ
ろ無事に存在している。
昭和49年(1974)  社屋が手狭となり、知り合いの家の下宿6畳間へ移転、工作室のスペースがとれた。
11/29京都市高速鉄道烏丸線起工式に出席した。
昭和50年(1975)  山陽新幹線博多延長の試乗会に行く。岡山までは営業中なので新倉敷←→広島間往
復が試乗区間であった。
昭和51年(1976)  大阪電子専門学校教員となる。四条〜京橋〜寺田町間、京阪特急+環状線の通勤と
なる。 高辻急行電鉄の1部門としてNゲージを導入する。
昭和52年(1977)  大阪府公立中学校教員となる。吹田市立第五中学校に勤務することになり、6年間
世話になった京阪電車から、阪急京都線烏丸〜正雀間の通勤となる。
 九州の矢部線にある「山内駅」へ訪れたが、無人駅のため入場券がなく車内乗車券
を購入した。
昭和53年(1978)  下宿6畳間に入るスペースでNゲージの組立式レイアウトを製作。高架複線エンド
レス+平面単線エンドレスのプランで、コントロールボードの製作を残すのみだった
が、本社移転が持ち上がり製作中断。
昭和54年(1979)  中京区西ノ京の新社屋に移転。通勤区間が西院〜正雀になる。Nゲージ組立式レイ
アウトは、大学鉄研へ寄贈した。
 珊瑚主催のTMSコンペ '79に江若鉄道キニ5ハフ8を出品したが、参加賞だけ
に終わった。
昭和55年(1980)  乗工社1/87・9mm 草軽ジェフリーを作ったが、キャラメルモーターの動力がうまく
走らず、ナローゲージ鉄道は見合わせることにした。中学校技術クラブの文化祭展示
用に、ベニヤ1枚分のNゲージ固定レイアウトを製作した。
昭和56年(1981)  結婚する。未乗で残っていた指宿枕崎線西大山〜山川間を新婚旅行に組み込んだ。
技術クラブの生徒たちはNゲージモジュールレイアウトを計画した。私はNゲージの
ことはよく知らないので生徒任せにしていたのだが、資金不足の中なんとか完成にこ
ぎつけ、文化祭では人気を博した。
昭和57年(1982)  1/80・16.5mm 組立式レイアウト 高辻急行電気鉄道 西ノ京(にしのきょう)線
7/23付けで完成。6畳間の家具を避けたスペースにエンドレスと駅を設けたプランで、
コントロールボードには、電車形トラコンを内蔵したものを製作。
昭和58年(1983)  西京交通開業。非電化地方私鉄の雰囲気を持つ鉄道会社とし、居住地の地名にちな
んで「西京交通(さいきょうこうつう)」と命名する。NEC PC-8001mk2を導入、初め
てパーソナルコンピュータなるものに触れる。
昭和59年(1984)  根矢川地方鉄道廃止。配置客車の老朽化および事故のため全車廃車となり、機関車
のみ高辻急行電気鉄道へ移籍して、根矢川地方鉄道は廃止とする。
昭和60年(1985)  阪急810系廃止のサヨナラ運転に応募したところ当選。3/3サヨナラ運転での
車内抽選会にて、「特急 神戸←→京都」の特製運行標識板が当たる。これは社宝扱
いとして展示している。
昭和61年(1986)なぜか空白? 
昭和62年(1987)  吹田市立第二中学校へ転勤。国鉄→JR移行。通常の通勤区間は相変わらず阪急京
都線西院〜正雀であるが、阪急高槻市〜JR高槻〜JR岸辺、阪急〜京都市交烏丸線
〜JR岸辺というルートも使うようになった。国鉄最終日に定期券を購入した。
昭和63年(1988)  TMS500号記念コンペに、琴電71号と熊電71号を出品し準佳作を受賞する。
1979年のコンペ以来の快挙である。カメラのシステムを長年使用したコニカからニコ
ンへ移行。
平成 元年(1989)  TMS500号コンペ準佳作の琴電71が、1989年9月号の表紙を飾り、熊電71
とともに記事掲載される。年末に中京区壬生の新社屋へ移転。
平成 2年(1990)  電話を2回線にし、パソコン通信NiftyServeに入会、2400bpsのモデムによる通信
を始める。鉄道フォーラムに入る。
Nゲージ部門を「壬生鉄道」として独立、二不堤鉄道に乗り入れる。
平成 3年(1991)  以前から少しずつ作っていたアメリカ型プラ貨車が増えてきたので、1/87・16.5mm
HOスケールの鉄道会社を設立、「M.D.Line」と命名する。
平成 4年(1992)  TMSコンペ '92に西鉄200系を出品、またもや準佳作を受賞する。私のキット
メークでは準佳作が限界と知る。
平成 5年(1993)  朱雀鉄道開業。モデルワーゲンのキハ04の発売を機会に1/87・12mmゲージを採用
し、江若鉄道の雰囲気をモデルで再現することを目標に、居住地の地域名から「朱雀
鉄道(しゅじゃくてつどう)」と命名する。もちろん「こうじゃく」との韻をふんだ
ものである。 キドモーター化でよく走るようになったナローゲージも再開、1/87・
9mm の根矢川軽便鉄道とする。壬生鉄道では、Nゲージユニトラックを3ミリベニヤ
に貼り付けただけの簡易レイアウトを製作。
平成 6年(1994)  NiftyServe FTRAIN の2フォーラム化に伴い、FTRAINI「鉄道フォーラム情報館さろ
ん私鉄西部」の会議室車掌に就任。アメリカンナロー HOn3 1/87・10.5mmゲージを開
業、「M.D.Line」の1部門として組み入れることにする。ついでに 1/48 16.5mmゲー
ジ「喜志部軌道」も始め、ひたすらマルチゲージャーへの道を進む。1/87・12mmゲー
ジ組立式レイアウトを製作、
FTRAINM 全国運転会に持ち込む。TMSコンペ準佳作の
西鉄200系の記事が、1994年3月号に掲載される。
平成 7年(1995)  前年より製作していた、1/80・16.5mmKATOユニトラック使用の組立式レイアウト
完成。1/8の大学OB会運転会にてデビューを飾る。 1/17、阪神淡路大震災
発生。幸いにも社屋人身に大きな被害はなかったが、展示モジュールに並べていたN
ゲージ車両は脱線・転落、陳列棚の16番車両も脱線していたが、アクリルの扉のお
かげで落下は免れた。
平成 8年(1996)  2/25、FTRAINM HOJリーグの運転会を東京にて開催。1994年に製作したレイ
アウトの駅モジュールと新たに製作したR1850のカーブモジュールを、青山メトロ会
館までクルマで運搬した。以降、レイアウト運搬会社として「高急運送」と称するこ
とにする。
 3月末に壬生地域内で社屋移転。電話回線をISDN化。レイアウト運搬用自動車
をスターレットからカリブにする。8月、森井さんの主催するHOJ運転会に参加。
平成 9年(1997)  家庭事情により、FTRAINの車掌業務から引退。2月、森井さんの主催するHOJ運
転会に参加。
合同運転会にも参加する。
平成10年(1998)  大学OB会模型運転会にて使用してきたKATOユニトラック組立式レイアウトが、基
板の変形やユニトラックそのものの変形で列車分離が多発するようになり、また転勤
のため保管場所がなくなる可能性が高いため、1月の運転会を最後に一部を残して廃
棄処分を行った。
 3月末の転勤辞令で大阪府公立学校教員から吹田市教育委員会へ。中学校教員生活
は21年間勤務したことになる。4月より吹田市立教育センターに勤務。西院−阪急
−高槻市−高槻−JR−吹田のルートで通勤する。
 森井さんとの協議を重ね、日本型HOスケールのクラブ「HOJC」を5月に立ち
上げる。10月14日鉄道の日にホームページを開業。
平成11年(1999)  新しい車輛の製作は進まない状態が続くが、運転会は頻繁に参加。成田で行われた
関東合運
にも「高急運送」として参加した。大阪市内や阪神高速は走ったこともない
のに、首都高速やレインボーブリッジを渡ってしまった。
平成12年(2000)  3月末の転勤辞令で教育委員会内での異動。指導課所属となり吹田市役所に通勤す
ることになる。西院−淡路−阪急吹田のルートになり、帰宅時は淡路駅で最悪の連絡
になってしまう。依然として新しい模型車輛の製作は進まない状態が続くが、運転会
は欠かさず参加。後半は家族・親族に病人が出て、病院通いの日々となった。
平成13年(2001)  1月に、妻の母、私の父が連続で他界。前半は喪中行事に追われた。しかし、運転
会は何とか参加するよう努力した。久しぶりに御殿場のFTRAIN運にも参加。
 仕事は指導課所属のまま教育センター勤務となり、またもやJR吹田ルートで通勤
することになる。
平成14年(2002)  3月に通信回線をADSL8Mに変更した。長男がなんとか大学に入学してひと安
心。仕事は所属が教育センターへ戻る。しかし5月に、妹の夫の父が急逝、またもや
前半は喪中行事となってしまった。
 模型工作はスローペースながら車輛・線路とも進んでいたが、年末の運転会あたり
で止まってしまった。二男は早々と芸術系短大への推薦入学を決めてしまった。
平成15年(2003)  1月に光ファイバ回線を導入、ADSLからBフレッツに変更した。公称速度100MBPS
であるが、ルーターを介して接続すると半分くらいになってしまう。料金割引もまだ
設定されてなくて、通信費の負担が大きくなった。3月末〜4月始めに肺炎に罹患、
高熱を発し1週間ほど入院してしまった。SARS騒ぎの中であったが、抗生物質投与に
より何とか回復した。模型工作は後半に江若客車の製作を再開したが、一旦塗装まで
こぎつけたものの、年を越してしまうことにになった。
平成16年(2004)  前年度まで二人で担当していた仕事が自分一人になり、時間内での業務処理がかな
り厳しい状況に陥っている。土・日に出勤して前週の始末と翌週の準備をすることが
多くなり、趣味の時間もあまりとれなくなってきた。運転会も何とか参加するように
努力したが、「夏運」系の参加が困難になった。
固定IP接続でLinuxサーバの運用をはじめたが、インストールのやりなおしを何回か
行うことになった。とりあえずテストページは動くようになっているが、cgiなど問題
もかかえたままになった。江若客車はまたもや年を越してしまうことにになった。
平成17年(2005)  仕事はそのまま業務多忙。次年度から導入する中学校コンピュータシステムの設計
や実施計画作成に追われた。
 9月、模型工作週報をブログに移行した。9月末、ようやく江若客車が完成。関西
合同運転会で披露した。この年は運転会の開催が多くなって、年間6回の運転会に参
加した。 LinuxサーバのOS入れ替え等行ったがメンテナンスが十分できず、放置状
態となってしまった。
平成18年(2006)  4月から中学校の職場へ転勤した。通勤時間の関係で6時台の阪急電車に乗ること
になった。また、帰宅も遅い時間になった。対応のため帰宅不能時間になり、学校泊
や近くのBH泊になったこともあった。前年に自分の設計で導入決定したコンピュー
タシステムの工事を現場で受けることになったが、じっくりと対応できることもなく
忙しさの中で過ぎていってしまった。
 結婚25周年であったが、超多忙の中で忘れていた。
平成19年(2007)  30年間勤めた公立学校関係の仕事から退き、京都伝統工芸大学校の学生となる。
通学定期で嵐電西院〜嵯峨駅前→JR嵯峨嵐山〜JR園部と通学する。しかし住宅事
情の変更のため、6月中京区から伏見区醍醐へ社屋を移転。通学区間も地下鉄東西線
醍醐〜二条〜JR園部となる。1時間半強かかることになったが、ちょうど嵯峨野線
複線化工事の時期にあたり、いろいろと変化を楽しめることになった。ネット回線は
そのままNTT光回線を移転した。クルマも相当古くなっていたので、トヨタのカリ
ブからホンダのホビオに更新した。
 結婚25周年の共済事業を利用して8月に嵐山へ二人で宿泊した。
平成20年(2008)  要請があって4月から吹田市の中学校で非常勤講師を始めた。技術科の授業は10年
ぶりである。自分の設計で導入したコンピュータシステムを授業者として使うことに
なった。TVデジタル化対応とネット環境統合のため、7月にNTTからeo光回線
に変更した。長年使ってきたプロバイダのASAHIネットも解除した。
HOJCが創設10周年を迎える。また大阪合運ではHOJCが主幹事を務めた。


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